何もしない時間が、いちばん雄弁になる。建築・能・音楽に通う日本の「間」と、能を観るようになって気づいたことを書く。
訳せない言葉「MA」
「間(ま)」は、ひとことで外国語に置き換えにくい言葉だ。部屋と部屋のあいだも、音と音のあいだも、会話の沈黙も「間」と呼ぶ。空間と時間を分けずに言い表している。
1978年、建築家の磯崎新はパリの装飾美術館で「間―日本の時空間」展を開いた。この展覧会はアメリカや北欧を巡回し、「MA」は訳されないまま海外に伝わった。
柱と柱のあいだ
日本の伝統的な建物は、柱で屋根を支える。柱と柱のあいだを「柱間(はしらま)」と呼び、その長さを測る単位が「一間(いっけん)」になった。尺貫法では六尺、約1.82メートル。お堂の大きさは、正面の柱間がいくつあるかで「七間堂」のように数える。
つまり日本の建物は、柱そのものより「あいだ」で大きさを言う。
床の間や縁側も、何も置かないことで役目を果たしている。床の間に掛けるのは掛け軸が一幅、花が一輪。あとは空けておく。空いているから、そこに置かれた一つが目に入る。縁側は、家の中でも外でもない。部屋と庭のあいだにある細長い板の間で、人はそこに腰かけて、どちらでもない場所で過ごす。
絵にも同じ考え方がある。長谷川等伯の国宝「松林図屏風」(東京国立博物館)は、墨の濃淡だけで霧の中の松林を描いている。画面の多くは何も描かれていない紙のままだ。それでも、そこに霧と光を見る。描かないところが、描いたところと同じだけ働いている。
せぬ所が面白き
能を大成した世阿弥は、1424年にまとめた能楽論『花鏡』の中で、観客がよく口にする言葉を取り上げている。「せぬ所が面白き」。演者が何もしていない所が面白い、という意味だ。
世阿弥は続けて書く。「為(せ)ぬ所と申すは、其の間なり」。何もしない所とは、間のことだ、と。舞が止まったところ、謡が途切れたところでも、演者は心を捨てない。次へ向けて心をつないでいる。その心が外ににじむから、何もしていない所が面白くなる。ただし、心をつないでいることを観客に見せてしまえば、それはもう「せぬ所」ではない、とも言う。
「止まる」ことと「抜ける」ことは違う。能の間は、何もない時間ではなく、いちばん心が詰まった時間なのだ。
間が抜ける
「間抜け」という言葉にも、この感覚が残っている。辞書で「間が抜ける」を引くと、最初に挙がるのは、音楽で拍子が抜ける、調子が外れるという意味だ。そのあとに「することにぬかりがある」「ぼんやりする」という意味が続く。
日本人は、間がずれることを、ものごとがうまくいかないことの例えに使ってきた。
武道の「間合い」も同じだ。相手との距離は、ただの長さではない。近すぎれば打たれ、遠すぎれば届かない。間は空白ではなく、相手との関係を測るものとして扱われている。
能の間に教わったこと
市蔵本舗は、能楽師の方とのご縁から、能を観るようになった。2025年の大阪・関西万博では、能を紹介するブースの出展にも関わった。
能の舞台は、動きが少ない。初めて観たときは、何も起きていない時間が長いと感じた。ところが観るうちに、その時間がいちばん目を離せない時間になった。演者が止まっているあいだ、舞台の空気は張りつめていて、観ているこちらも息をひそめる。一つの動きが終わり、次の動きが始まるまでのわずかな時間に、見る側の想像が入りこむ。舞台の上の物語は、演者だけでなく、その間を受け取る観客の中でも進んでいく。
建物の柱間も、音楽の拍子も、刃物を研ぐ手を止めて刃先を確かめる一瞬も、同じ「間」でつながっている。能の間を知ると、日本の文化がもう一段深く見えてくる。市蔵本舗は、刃物と能を少しずつつないでいきたいと考えている。
市蔵本舗より
余白を埋めずに残しておくこと。急がずに、手を止める時間を持つこと。道具と長く付き合う暮らしは、そうした間の中にある。市蔵本舗の刃物が、使う人の毎日に、そんな一呼吸を添えられたらと思う。